公開: 2024年5月6日
更新: 2024年5月6日
日本社会において、集団を対象とした教育が導入されたのは、奈良時代後期の頃だと思われます。その教育対象は、将来、僧侶になる若い人々だったと考えられます。学僧として唐に渡り、密教を学んできた最澄は、帰国後、比叡山に、若い僧が密教を学ぶ延暦寺を建立しました。この延暦寺は、唐風の若い学僧が仏教を集団的に学ぶ場所として設立されたものです。そこには、仏教を極めた僧侶と、仏教の数多くの聖典が集められていました。学僧たちは、高僧たちの教えを受け、自分たちが興味をもった経典を読み、仏教を学びました。
この時代の教育は、高僧が行った話の内容を理解し、その話の基となった仏陀の教えを理解するために、経典を紐解(ひもと)き、読んで理解するすると言う、個人による学びが基本でした。ただ、高僧たちの中には、しばしば、数多くの人々を前に、教えを説く方法を採る人々も出現していました。そのような、説教をきっかけにして、僧として学び始めた人々も居たようです。
その後、鎌倉時代になって、日本に禅宗がもたらされると、学僧が集まって、座禅を行う修行の方法が採用されるようになり、仏教においては、個人的な学びと、集団的な学びが組み合わされるようになったようです。江戸時代に入って、一般の人々の間に広まった、「寺子屋」で、集団的に文字の読み書きを学ぶやり方は、このような学僧が仏教を学ぶやり方を真似たものだと考えられます。
江戸時代に入って、徳川幕府が、武士の「たしなみ」として、儒学を推奨するようになり、武家の子弟たちは、儒学、特に朱子学を学ぶようになると、武士階級では、中国風の儒学を学ぶ学校の制度が成立しました。そこでは、一定水準以上の知識を身に着けた人々が、「教本」を読み合わせ、その内容を学ぶ方法が確立しました。そこでは、教科書に書かれている漢文を暗記することが主体でした。
幕末から明治維新にかけての日本社会では、寺子屋でも、この江戸時代の武士階級の教育法として普及していた集団学習法が、標準的な学習法として採用されていました。明治初期の学制で採用された学習法は、集団指導が可能な、一人の教師が、多数の児童・生徒を教える集団指導方式が採用されました。その後、一部の特殊な事例を除き、日本社会では、全ての児童・生徒に対して、同一の内容を説明する一斉授業のやり形が踏襲されています。